正気の沙汰ではないけれどこれしかないから

 

「命について真剣に考えたこともないのに、死にたくないと病院に来て、医者にその命を委ねるのですか」

 嫌らしい追求に抗って、浜山は言う。

「みんながそんなことを考えて病院に来るとでも言うんですか?」

 桐子は首を横に振った。

「いいえ。ほとんどの人が、何も考えずに来ます。(中略)だから、我々は彼らをベルトコンベアに乗せざるを得ないのです。ただ余命を伸ばすことだけを目的にしたラインに乗せ、工場のように動かすのみです。それが彼らの願いなのですから」

――『最後の医者は桜を見上げて君を想う』

 

うとうとと頭を揺らしながら一つ前の駅を発車した。
今日はとても眠たい。
朝も早かったし、眠るのも遅かった。
 
とあるニュースをみて、桐子の言葉を思い出した。
確かにそうだ。私たちはチャートに沿って仕分けられていく。
 
 
大切なものを持つことが怖い。
 
幼い頃に時代劇で、子どもの解放を約束に死ぬ親をみた。
その子どもは、親が死んだ後に殺された。
 
時代に反逆した画家の物語では、利き腕を問われ腕を折られた。
 
大切なものなんて持たない方がいい。
これを書いている今もそう思っている。
 
 
だが唯一、命についてだけは真剣に考えている。
死に時。生きる意味。
これらは「考える必要のないこと」と称される。
しかし無性に気になってしまうのだ!
 
自分の人生をどうありたいかについて悩む時、安楽死制度が存在していると選択肢が広がる。
制度として確立した後、人々は何才まで生きようとするのか、興味がある。
 
長生きは本当に幸せなのか。
人は何才になると死に時を考えるのか気になる。
それによって変えるべき制度や法律があるかもしれない。
 
人々の倫理観や陳気なイメージで反対されてしまうが、
将来のためには制度が確立してみてもいい。
 
 
こんなことを毎日延々と考えている。
「考える必要がないこと」を、私は毎日延々と考えている。
 
 
気味が悪い。